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  • 2014/07/16

【偉人伝】「英語で本質を見抜く力」 - 陸奥宗光

  •  今回の偉人は陸奥宗光です。彼は不平等条約を改正し、国際的に日本の地位向上に大きく貢献した人物です。ある時は坂本竜馬と交流し、ある時は獄中で勉強に励み、ある時は外務大臣として活躍し、と日本の転換点で様々な経験を積んできました。これからの日本はどうあるべきか、日本の外交を担う人材になるにはどうするべきか、彼の生涯を通じて考えていきます。

 歴史を変えた偉人との邂逅と交流

 彼は1844年8月20日、紀州藩士の六男として生まれました。彼の父は国学者・歴史家であり、その影響から彼は尊王攘夷思想を持つようになったそうです。彼の父は紀州藩の財政を立て直した優秀な勘定奉行でしたが、藩内の政争に敗れて失脚してしまいました。そういった苦境の中、彼は独学で漢籍などを学んでいきます。さらに1858年に、彼は江戸に出て、当時有名な儒学者であった安井息軒に師事します。

 このように彼は向学心が旺盛でしたが、一つ欠点がありました。それは彼が吉原に嵌ってしまったということです。結局彼の吉原通いの癖が露見し、彼は破門されてしまいます。しかし、その後に彼は一勝を変えるような人物に巡り合います。彼は水本成美に学び、坂本龍馬、桂小五郎、伊藤博文などの傑物と出会い交流を深めていくこととなるのです。

 彼は1863年に勝海舟の神戸海軍操練所に入り、1867年には坂本龍馬の海援隊の前身、亀山社中に加わります。勝海舟や坂本竜馬という二人の日本の偉人に対して、彼は自らの能力を認めさせていきます。実際に坂本竜馬は「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言ったそうです。また彼もまた坂本竜馬のことを「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。

 自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と称していたそうです。このように、彼は坂本竜馬と親密な信頼関係を気づいていったのです。坂本龍馬が暗殺された後、彼は紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件を起こしています。どれだけ彼が坂本竜馬という人物との関係が深かったかがわかります。

政府要職から獄中生活まで

 明治維新後は岩倉具視の支援もあり要職を歴任します。外国事務局御用係、兵庫県、神奈川県令、地租改正局長などの職を経験していきました。しかし、当時の政府は薩長藩閥政府と呼ばれるほど薩摩長州藩出身の人物に占められている状況に激怒し、役職を辞任して和歌山に帰ってしまいます。そんな彼に追い打ちをかけるように不幸が訪れます。

 彼は投獄されてしまったのです。きっかけは1877年の西南戦争です。彼は西南戦争の際に政府転覆を図る人物と連絡を取り合っていたことが発覚したのです。こうして彼は除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄されてしまいます。彼がすごいのは投獄中の活動でしょう。彼はイギリスの哲学者ベンサムの著作を研究していたのです。1883年に特赦によって出獄を許されると、彼はヨーロッパに留学に行きます。彼は特に議会や内閣の制度に関して知見を深め、国家の在り方について猛勉強したのでした。

日本の外交戦略の基礎を築く

 1886年に帰国した彼はこれまでの経験を生かして外務省に勤務するようになります。そして駐米公使、駐米公使兼駐メキシコ公使として、大きな功績を挙げます。日本最初の平等条約である日墨修好通商条約をメキシコと締結したのです。これは日本に対する不平等条約撤廃に向けての大きな一歩となりました。これを先例として列強諸国との対等な交渉に持ち込もうとしたのです。

 彼は帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任します。彼の手腕が評価された証だと言えるでしょう。その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任します。 そして1894年、ついに彼は日本の念願を成就することに成功します。イギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、不平等条約の撤廃に成功するのです。それ以降もアメリカ合衆国、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正していきました。

 彼が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で治外法権の撤廃に成功したのでした。その一方、当時の日本は清に対しても影響力を増していきました。朝鮮で甲午農民戦争が始まると、清の出兵に対抗して派兵を行います。こうして朝鮮に親日政権を樹立させ、日清戦争へと発展していきます。彼は本心では大陸介入にも否定的でしたが、戦争への流れを食い止めることはできません。

 そこで彼は列強諸国の介入を防ぐためにもこの時にイギリス、ロシアが中立的な立場であることを約束させ、戦争を有利な状況のまま進めようとしました。こうした彼の貢献もあり、日本は有利な条件の下で下関講和条約を結ぶことができたのです。以降、彼が用いたイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線を進める外交戦略は「陸奥外交」と呼ばれます。こうして彼は日本の外交の基礎を築きあげたのです。

t-news編集部より

 近代日本の外交を築き上げた人物、陸奥宗光。彼の生涯を通じて伝わるのは、彼の現実主義的な分析力です。彼のそうした能力はどのようにして築き上げられたのでしょうか。それは第一に彼が根本的な哲学に理解があったことが挙げられます。彼は獄中でベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』の翻訳を行っていたこともあり、功利主義に関して深い理解があったことでしょう。

 ベンサムの功利主義とは個人の効用の総和を最大化することを重視したものです。そして、この考えは民主主義や近代経済学の発展の土壌を作り上げました。彼は西洋に広まりつつあった思想の根本を知っていたからこそ、こういった国々の行動原理を分析することができたのではないでしょうか。二つ目に、海外留学の経験が挙げられます。彼はロンドンやウィーンで政治体制について深く研究していました。彼は自身の英語力で欧州各国の教授と英語で憲法論を論じることができたそうです。

 彼は留学を通じて英語を学んだのではなく、留学を通じて学問を深く研究していたのです。当時英語が達者な日本人があまりいないという環境で、彼が留学で得たものは他の人の何倍も大きかったのではないでしょうか。だからこそ、彼は留学を通じて海外の状況を目で見るという曖昧なものではなく、思索を重ねて本質に迫ることができたのではないでしょうか。彼はこうして列強諸国の本質を見抜くことができたのではないでようか。これは構造把握能力が優れていたということでもあるのでしょう。

この要素が活用された例

 ユーラシアグループというコンサルティング会社があります。この企業が行っているのは地政学リスクの洗い出しです。様々な情報源から知識を集め、優秀なスタッフが情報を分析し、リスク分析を行っています。この会社を立ち上げたイアン・ブレマー氏は2007年には世界経済フォーラム(ダボス会議)で若きグローバルリーダーの一人に選ばれるほど、世界から注目を浴びている人物です。まさに国際的な社会構造を把握することが世界的にも求められているのではないでしょうか。

陸奥宗光の名言

政治はアートなり。サイエンスにあらず。

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